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山形県 温海温泉 あらたまや
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〒999-7204
山形県鶴岡市湯温海甲172
TEL:0235(43)2007
FAX:0235(43)2052
●第一級防災設備完備
●客室数 19室
●定員 97名様
●源泉掛け流し100%
  檜風呂・花風呂
●駐車場完備



【与謝野晶子と旅】

由緒のあるなしを別にして、古い温泉を訪れますと、明治・大正・昭和の文人墨客の足跡を見かけることがよくありませんか。

ここ「温海温泉」も多くの文人から愛され、訪れて頂いております。その一例が、日本を代表する女流歌人「与謝野晶子」女史です。

温海温泉にお出でになるお客様のなかには、こうした文人のゆかりを訪ねていらっしゃる方も少なからずおられるようです。

では、文人墨客たちは何故、温泉を好んで訪れたのでしょう。

� ■第一の理由 「原稿を書く静かな雰囲気をもとめた」すなわち執筆の場として。
� ■第二の理由 「小説の舞台として温泉の鄙びた地を選んだ」
� ■第三の理由 現代人にも通ずる「湯治療養のため」

女史もとにかく温泉好きで有名な方だったようです。生涯に170度(旅)以上、日本各地の主な温泉場を訪ねています。

しかし、女史の場合の旅は、上に挙げた三つの理由以外の訳がありました。その理由とは、夫(与謝野鉄幹)が主宰する短歌雑誌等の経営のために必要な資金をまかなうため、全国から依頼の入る講演や揮毫(サイン会みたいなもの)を請けての旅だったようです。当人の言葉を借りれば、ほとんどの場合「旅かせぎ」だったということになります。


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【温海温泉の旅前後の音信】
明治時代の温海温泉之図
明治時代の温海温泉之図
クリックで拡大図がご覧頂けます



歌碑に刻まれた短歌です。
歌碑に刻まれた短歌です

温海川のほとりに佇む歌碑。
温海川のほとりに佇む歌碑
昭和10年 3月26日 夫、与謝野鉄幹急死。享年62歳。(晶子:57歳)
  5月25日 晶子、脚気を罹患。箱根で療養。
  6月28日 新潟県長岡市 羽賀氏寿楽荘(屏風揮毫のため)2泊
  6月30日 寺泊→古志の海→出雲崎 1泊
  7月1日 山形県温海温泉(海老屋) 1泊
  7月2日 帰京
  この月 「越より出羽へ」69首 雑誌「冬柏」7月号に発表

温海温泉を訪れた昭和10年という年は、女史にとって とても重大な転機になった年です 温海温泉を訪れる約三ヶ月前、夫「鉄幹」を急病で亡くしています 。

夫が亡くなった直後にも関わらず、新潟の長岡の知人から 屏風への揮毫を頼まれ、それに応じて旅に出たわけです 。

女史は例えば、この温海温泉で 「さみだれの出羽の谷間の朝市に傘して賣るはおほむね女」 という逞しい女性像を詠っていますが、この女性に自分自身の姿をなんとなく重ねていたように感じます。

つまり夫が亡くなったとは言え、雑誌の経営は続けなければなら ない責任が女史にはあったわけです。

そのために「旅かせぎ」はとても大事だったのでしょう。この短歌には、働く女性像の喜びと悲しみ、それが見事に表現されているように感じられてなりません。

もう一言付け加えることを許していただけるなら、そう言った女性の複雑な心理を 温海の温泉が、一瞬ときほぐし 「湯場の屋根濡れて光れば岩燕岩と見なして遊ぶさみだれ」 と言う境地をもたらしたのかもしれないのではないかと思うのです。

最愛の夫を亡くした悲しみを乗り越え、夫の遺志を受継ぐべく、心を新たにして前向きに生きる事を、この温海温泉で女史は決意を強くしたように思われてならないのです。

温泉の思わぬ効能、人の悲しみを癒し、生きる勇気を体の中から湧き立たせてくれる。女史もそんなことにちょっと感動していたのかもしれません。


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【表紙の短歌について】
温海の湯色を変ふてふ 浴む身に随ふならば悲しからまし 与謝野晶子 ●読み方

「あつみのゆ いろをうつろうてう
  ゆあむみによりそうならばかなしからまし」

●大意

「温海の湯の色が変わっていく
  湯浴する身体によりそうお湯に
     悲しさが一段と増してくる」


【温海温泉で詠んだ全短歌】
短歌雑誌「冬柏」第六巻:第七号 「越より出羽へ」昭和10年7月発行初出
  長岡に今朝雨を聞き夕には出羽の温海の吊橋を行く

  吊橋を吹きてはかなし庄内も近きさかひの山の夕風

★ 朝市の初まりぬとて起されぬほととぎすなど聞くべき時刻

★ さみだれの出羽の谷間の朝市に傘して賣るはおほむね女

  我が借れる湯治座敷も窓あれど暗しいではの山のさみだれ

  二日して湯の香混りの五月雨に馴れし出羽の温海山かな

  ほととぎす通ふに足らん御空をば上に残せる出羽の夏山

  出羽とて北の空のみ明るきも慣ひ變れる山の湯の宿


★ 湯場の屋根濡れて光れば岩燕岩と見なして遊ぶさみだれ

  温海の湯色を變ふてふ浴む身に随ふならば悲しからまし

遺稿集「白櫻集」 平野萬里 編

あらたまやの川向に歌碑が立つ。 260年の歴史をもつ朝市。
あらたまやの川向に歌碑が立つ 260年の歴史をもつ朝市


【高村光太郎が寄稿した 白櫻集 序文】
昭和17年9月発行 「白櫻集」 初版本: 個人蔵
昭和17年9月発行
「白櫻集」 初版本: 個人蔵
まことに人も言ふ如く、与謝野晶子女史が紫式部、清少納言といふやうな人達と同列の高さに位置すべき事はもはや論議の余地もない。その一生に物された短歌の數は恐らく數萬首の多きに上るであろうが、その表現の本質は、よく藝術精神本来の深い、幅ひろな地下泉から出でゐて、決してただ地上水の濾過滲透による、一區域的涌水のやうなものではない。殊にその表現技術の自由無礙と多様多面とは古今獨歩と言ひ得る。その中期から晩年へかけての作には悠揚せまらぬ格調の大きさと、人知れぬかくれた著想の微妙さとに於て汲めども盡きない詩趣が存する。女史の歌といへば初期青春時代のものばかりを思出す如きは鑑賞者の怠慢である。未結集の晩年の短歌をのみ収めたといふ此の「白櫻集」こそ心をひそめて讀み味ふ者にその稀有の美をおもむろに示すであらう。その美は人をつかみ、人の心に永遠の活力をもたらすのである。

昭和十七年八月 高村光太郎


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【与謝野晶子 プロフィール】
●大阪府堺市生まれ。旧姓は、鳳(ほう)。本名は、志よう。

●1900年(明治33年)与謝野寛(鉄幹)によって創立された新詩社の社友となり、その新詩社の機関誌「明星」に短歌を発表。翌年、処女歌集「みだれ髪」を刊行。浪漫的な情趣をたたえた「明星調」は当時の青年層から熱狂的に支持された。

●与謝野寛との結婚後は、「小扇」「舞姫」「夢之華」などの歌集をあいついで刊行し、歌壇に女流歌人の第一人者としての名声を確立した。

●明治四十年代から大正期にかけての歌集・詩歌集に、「常夏」「佐保姫」「春泥集」「青海波」「夏より秋へ」「朱葉集」「火の鳥」「太陽と薔薇」などがある。

●昭和に入ってからも作歌活動は続き、「心の遠景」「白桜集」(遺稿)などの歌集が刊行されている。

●また、上記の短歌、「君死にたまうことなかれ」をはじめとする詩や小説、童話のみならず、源氏物語などの古典研究、婦人問題に関する評論活動、文化学院をよりどころとした女子教育など、多方面にわたって活躍する。


参考文献:年表 作家読本 与謝野晶子 平子恭子編著 河出書房新社 1995.4初版
資料 与謝野晶子と旅 沖良機 著 武蔵野書房 1997.7初版

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